2014/11/07

【特集】講演会レポート「生誕100周年ムーミンをつくった芸術家 トーベ・ヤンソンの知られざる素顔」

「生誕100周年ムーミンをつくった芸術家 トーベ・ヤンソンの知られざる素顔」

日時:2014年10月24日(金)19:00~21:00
講師:トゥーラ・カルヤライネン
(ヘルシンキ現代美術館KIASMA元館長・キュレーター・美術史家・作家)
会場:千代田区立日比谷図書文化館



日本では「ムーミン」の作者として広く知られているトーべ・ヤンソン。
母国フィンランドではやはりムーミンのイメージが強いようですが、画家としても名高く、小説家、挿絵、画家、連載漫画家など、多彩な才能をもつアーティストとしても知られています。

今年2014年はトーベ・ヤンソン生誕100周年ということで、さまざまなイベントが開催されるなか、フィンランドの首都ヘルシンキ・国立アテネウム美術館では大規模な回顧展がこの春から秋にかけて開催され、同展は10月23日より、そごう美術館を皮切りに全部で5ヶ所、国内を巡回します。

【特集】「生誕100周年トーベ・ヤンソン展~ムーミンと生きる~」、ついに巡回スタート!
10月より国内を巡回!大回顧展「生誕100周年トーベ・ヤンソン展~ムーミンと生きる~」

その大規模な回顧展「トーベ・ヤンソン展~ムーミンと生きる~」の監修を手がけ、キュレーターであるトゥーラ・カルヤライネン氏が来日。トーベ・ヤンソンの画家としての功績、家族や他のアーティストとの関わりなどについて、トーべの新たな魅力を10月24日の講演会で語ってくださいました。

まるでトゥーラさんと一緒に展覧会の作品を見ながら巡っているかのような、ていねいな解説。トーベが生涯にわたって手がけた作品を通じて、人間関係から時代背景まで、講演会でのトゥーラさんのお話をまとめてみました!


●小さい頃から、夢は「画家」
1950年代に撮影されたトーベがアトリエにいる写真。そのアトリエの写真はなんと、すべてトーベ自身がセッティングして撮影したものだというから驚きです。「画家」というイメージで見てもらいたかったという表れだとか。撮影したのは弟のペル・ウロフ・ヤンソン。トゥーラさんは彼から直接この話を聞いたそうです。自分が撮られることを意識した写真のひとつ。

●母は挿絵画家、父は彫刻家という芸術一家
母は切手のデザインなどを手がけていた挿絵画家で、家族の大きな収入源だったそうです。トーベは14歳ごろ、自分で手作りの雑誌を作って友人に配ったり、人生を通じてたくさん描いていた自画像もこの頃から。生涯を通じて(かなり)母からの影響が強かったというトーベ。かなり大人になるまで長く一緒に住んでいました。

●油彩から風刺雑誌の挿絵まで
タバコの煙を揺らす有名な自画像「タバコを吸う娘」は、タバコ店の人が購入してくれたものの、広告として飾られていたというエピソードがなんともユニーク。
戦争に突入し、防空壕の内部を描いた作品もあります(防空壕の中を描くというのは、当時としては大変珍しかったそう)。トーベは大変戦争を憎んでいました。風刺雑誌「GARM」では、ヒトラーといった偉大な存在のイメージを皮肉るように、大胆かつユーモラスに描いたりしました。

●楽園やパーティーの作品たち
当時、トーベの楽園はモロッコ。そんな楽園を描いた作品も残しています。芸術家仲間たちと引っ越しを考えたりしていましたが、実現はしていません。南の島に移ろうとした計画も叶いませんでした。
華やかな街のパーティーの壁画と田舎のパーティーの様子を描いた壁画は、スウェーデン系フィンランド人の労働者学校で今でも見ることができます。街のパーティーの壁画には、トーベ自身の姿も。ムーミンもこっそりといます。

●英イブニング紙の掲載を機にムーミンが世界へ
40ヶ国で紹介されたイブニング紙のムーミン漫画。名声もお金も手に入る仕事でしたが、非常にきつかったようで、7年間の契約が切れたらやめたかったそうです。ここでムーミンは終わり。そしてやはりやりたいことは、「絵を描きたい!」

●「画家」へのこだわり ― 抽象画の時代
時代は移り変わり、流れに沿って抽象画を描こうとしますが、常に作品の中に物語を描きたいトーベはどうしても抽象画になりきれず、“抽象画風”な作品になってしまうことも。画家としての最後の作品は、トゥーリッキ・ピエティラが作業しているところを描いたものでした。

●トゥーリッキの助言で再びムーミンと
戦争中に描いた『小さなムーミントロールと大きな洪水』が第1作目のムーミン小説。『ムーミン谷の彗星』は、ちょうど広島や長崎に原爆が投下されたときのことが影響しているそうです。そして、テレビアニメ放送により、ムーミンの知名度が一気に世界に広がりました。雷や嵐のシーンがよく登場するムーミン。トーベは「雷や嵐は、ひどくなればなるほど好き」と言っていたそうです。海だけでなく、雷や嵐が好きなのも父親ゆずり。

●「クルーヴ島」 ―ようやく辿りついた楽園
南の島への憧れから、何もない岩礁の島へと、トーベの中での“楽園像”が年齢とともに変化。小屋を建てて、トゥーリッキといろんなものを制作したり、大好きな海とシンプルな暮らし。テントを建てて外で寝ていたという驚きの話も(小屋じゃないの??)。
舞台監督のヴィヴィカ・バンドレルがやってきたとき、「水もないのにどうやって暮らしているの?」とたずねると、トーベは「たしかにそうね、でも時々雨が降るしね」と、全く気にもせず、その不自由さ、不便さを心から楽しんでいたそうです。

●何より大事なのは「みんなが幸せであること」
世界中の子供たちからのすべての手紙に返事を出していたトーベ。スウェーデンの新聞が「トーベを子供たちから助けましょう」といった見出しの記事を書いたほど、ものすごい量の手紙が届いたそうです。トーベは返事を出さないと気になって仕方がなく、仕事も手につかなくなるため、せっせと返事を書いていたとか。トーベ宛の手紙は今でも資料庫に保管されています。


海を愛し、自由を愛し、人を愛し、自然を慈しんだトーベ・ヤンソン。
最後にトゥーラさんがチョイスしたのは、海で両手を高くあげたトーベの写真。強く、開放的で、美しい。

ヘルシンキのトーベのアトリエで彼女が残した手紙を読む機会に恵まれたというトゥーラさん。それにより、はっきりと、トーベのことがよみがえってきたそうです。トーベの手紙は対話式ではなく、日記に近いものだったとか。「それらの手紙を全て読んで、それを元に、トーベが考えていたこと、思っていたことなどを今日はお話できたかと思います」と結びました。

自分の経験、周りの環境をもとに、自分の人生をありのままに芸術で表現したトーベ・ヤンソン。
彼女の才能と愛情は、これからもずっと、作品を通じて後世へと伝わっていくのだろうと心から感じた講演会でした。 



【トゥーラ・カルヤライネン】Tuula Karjalainen(1942-)
フィンランドのエスポー美術館のチーフキュレーター、アート・アカデミーの副ディレクター、ヘルシンキ大学教授(美術史)、ナショナル・ギャラリーの総合アーカイブ・ディレクター、ヘルシンキ市立美術館館長、ヘルシンキ現代美術館(KIASMA)館長などを歴任。トーベ・ヤンソン生誕100周年を記念してヘルシンキの国立アテネウム美術館で開催された大規模な回顧展のキュレーターを務めた。9月25日に刊行された著書『ムーミンの生みの親、トーベ・ヤンソン』(河出書房新社/2014)の原書は、フィンランド語の優れたノンフィクション作品に贈られるラウリ・ヤンッティ賞を受賞。

【トーべ・ヤンソン】Tove Marika Jansson(1914-2001)
フィンランドを代表する画家、小説家、挿絵画家、連載漫画家。彫刻家の父と、画家の母の長女として生まれる。ストックホルムの工芸専門学校、ヘルシンキの芸術大学、パリの美術学校などで学ぶ。1945年から『ムーミントロール』シリーズを発表。1966年に国際アンデルセン賞作家賞、1963・1971・1982年にはフィンランド国民文学賞を受賞。母国フィンランドでは画家としての評価も高く、特にフレスコ画の手法を用いた国内の公共建築の壁画など多くの作品を残している。

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